「市場(新京近く)」(1935年)は現存する唯一の戦前の作品で、今井憲一氏と満蒙地方に写生旅行訪れた際の、画家24歳のときのものである。1981年に回顧展を開催するに当たって、カタログ用写真を撮っていた最終日、偶然にも親戚からこの4号のスケッチが届いたという。「つたない作品で恥ずかしいが、唯一の戦前の作品として陳べることとした」と図録にある。
同じ図録で、画家は1935年頃の作品に愛着があったと述べているが、それらの作品は画家の出征中に、自宅が強制疎開(砲弾による延焼を避けるための建物の強制的な取り壊し)に遭い、失われてしまった(関時之介, 1980,安田謙画集)。
戦後の高度成長時代に入ると、まだ渡航制限のあった1963年には商社の人々と、70年代に入ると60歳前半に中村善種氏と、あるいは学生を引率して、もしくは個展の開催をかねて、毎年、ヨーロッパへ1~4ヶ月の写生旅行に出かけた。この経験はドン・キホーテシリーズなどの大作にも大きな影響を与え、ヨーロッパ各地や北アフリカで出会った風景や人々が、再構成して画面に取り入れられている。
晩年には、底冷えのする冬の洛北や飛騨地方に好んで足を運び、里山や雪の積もった山々をスケッチした。厳しくも優しい冬の風景として残されている。