木村重信

木村重信氏は美学・美術史学者。専門は民族芸術学と近現代の美術史。

大阪大学名誉教授。京都市立芸術大学名誉教授。兵庫県立美術館名誉館長。元国立国際美術館館長。

安田謙とは京都市立芸術大学にいたときに同僚であった。

木村重信 ドン・キホーテの変貌 「安田謙回顧展図録」京都新聞社,1980年から

安田謙回顧展図録,京都新聞社,1981年
安田謙回顧展図録,京都新聞社

 

 


 安田謙さんと言えば、誰しもドン・キホーテを連想する。事実、安田さんは1958年以来、独立美術展に毎年ドン・キホーテの絵を出品し続けている。正義を愛し、理想のためにはわが身の危険を顧みないドン・キホーテと、臆病でずるい従者サンチョ・パンサのかもしだうユーモアとペーソスに魅せられたわけであるが、この物語を絵画化するに当たって、安田さんは幾多の変遷を経た。

 

 1960年代のドン・キホーテ連作は、物語性よりも造形性が強調されている。そのことは、ドン・キホーテよりも、彼の乗る馬ロシナンテに表現の重点がおかれていることに端的にあらわれている。その作品の多くは背景が描写されずに、正面または四分の三正面を向いた馬が、間近な下方の視点から見られて、鋭角的に大きく描かれて、激しい動きをはらんだ構図となっている。ときには、奔馬ロシナンテの傍らに、憧れのデル・トボーソ姫を静かに配することによって、静と動のとを対照させたりもする。

 

 この時期の絵のもうひとつの特徴は、人物像における手の強調である。これは1950年代から受けつがれた特徴で、ひとえに人物の存在感を強めるために採用された。また、1962年ころから、画面に布を貼りつけて、新しい質感という造形上の効果を求めたこともある。これは安田さんが1960年ころからテクスタル・デザインを手がけたことと関連する。これらの布は、古代裂や古代更紗などのような上質の布裂であったが、その材質感や文様が油絵具と微妙に融合して、デコラティヴで触覚的な画面が形成された。

 

 しかし、安田さんはもともと自然対象に触発された内的イメージの表現を主とする画家で、マティエールそのものの明証性を追求するタイプの画家ではない。したがって、このような即物的な試みはながく続かず、1970年代には大きく転回して、より具象的な作風に変わる。

 

 この転向には1972年のヨーロッパ旅行が大きく作用している。安田さんはスペインのカタロニアの中世絵画に影響されつつ、浪漫主義的な気分を画面に充満させていく。たとえば「入城(影)」において、安田さんは写実的な形態と幻想的な色彩によって対象をとらえ、そこから一種の超自然絵t期なイメージをうかびあがらせている。いわば「魔術的リアリズム」とでも言うべき手法で、人物・馬・壺・山などの実在感の追求と、それらの謎めいた出会いのうちに、独特のユーモアをあらわすのである。

 

 その後、安田さんの筆致は年を追うて細密になる。同じくドン・キホーテを描いても、かつてのようにドン・キホーテと愛馬ロシナンテだけでなく、背景の自然や関連する人物を国名に描くことによって、その絵のもつ物語性を一層つよめている。このような物語性の強調とともに、かつて正面から間近に見られた馬が、次第に側面観で遠くにあらわされるようになる。また時には、「モンセラの誓い」のように、きわめて細密に描いた前景と、ぼかして描いた影絵の背景とを対照させて、不思議な幻想を画面に盛ったりする。そしてこのような幻想を更にかきたてるのが、紫を主とする鮮烈な色調である。

 

 ともあれ、安田さんは自らの内的な要求にしたがって、徐々にその作風を変化させて、現在に至った。(後略) (大阪大学教授)

 

※仮名遣い原文のまま。

木村重信 安田謙の人と作品「安田謙画集」光琳社,1980年;安田謙とドン・キホーテ「虚実空間に遊ぶ-関西美術家群像」講談社, 1989年(再録)から抜粋

木村重信,虚実空間に遊ぶ-関西美術家群像,講談社,1989年
木村重信「虚実空間に遊ぶ-関西美術家群像」講談社

 1.

…(略)…

 安田さんの長い画業を顧みると、二度の軍隊生活から帰ったあとの、第二次大戦後に、ひとつの大きな転機がある。1950年代の初期に、安田さんは働く人たちをテーマにして、その厳しい生活を好んで絵にした。清水の陶房や魚市場や漁村などにも赴いたが、特によく足を運んだのは二條駅であった。トラックがまだ少なかった、その頃の運搬の主役は馬車であったが、その馬車を頻繁に目撃することを通じて、馬への関心が深まった。あるいは雪の降りしきる中を黙々と行く馬車、あるいは炎天下にあえぐ荷馬、それらをキュービックな分析的構図で描いた。これにもともと西部劇が好きだった気質も手伝って、安田さんはやがて馬そのものにたいする興味に没入していった。そして競馬場や厩舎を訪れて、馬の生態を観察し、それらを勢いのある筆致でタブローに仕上げた。

 

 その頃、安田さんは一冊の本を手にする。セルバンテス著すところの「ドン・キホーテ」である。…(略)… それ以後、安田さんはドン・キホーテに関するあらゆる資料を渉猟する。オレノ・ドーミエに傾倒するようになったのも、ドン・キホーテの取り持つ縁である。周知のように、ドーミエはドン・キホーテの冒険を主題にした数々の素描や油絵を残している。…(略)…

 しかし、同じくドン・キホーテを主題にしつつも、安田さんの1960年代における連作と、ドーミエの絵画との間には、作風上の著しい違いがある。ドーミエの絵画では主題のもつ浪漫主義的気分が濃いが、安田さんの場合はきわめて造形的であるからである。そのことは安田さんの連作においては、ドン・キホーテよりも、彼が乗る馬ロシナンテに重点がおかれていることに、端的にあらわれている。多くは背景が描写されずに、画面いっぱいに正面向きの馬が、鋭角的に大きく描かれて、きわめて動きに富んだ構成になっている。…(略)…

 

 このような1960年代の、いわば造形主義的な絵画は、1970年代に入ると浪漫主義的な香気をたたえる絵画に変わる。…(略)… この傾向は70年代に入ると、一層強まった。すなわち、描写がより具象的になり、またドン・キホーテをとりまく人たちや背景の自然が描かれることによって、より文学的となった。その転機は1969年の「ドン・キホーテ」あたりで  …(略)… さらに71年には、デル・トボーソ姫がシモーネ・マルティーニ描くところのマリアの姿であらわされたり、背景の自然がジョットの岩山や樹木をかりて表現されたりする。かくして、安田さんの関心は、次第にドン・キホーテの人間性の内部における悲劇的な闘争、精神と肉体、理想的野望と厳しい現実との相剋といった、主題の文学的解釈を一層強めていくのである。

 

2.

 もとより、安田謙さんはドン・キホーテばかりを描いているわけではない。裸婦も静物も描き、またテクスタル・デザインをも手がける。ちょうどドーミエが、ドン・キホーテのみならず、庶民生活の種々相、政治的風刺画、風俗漫画を描き、はては彫刻をも作ったように。安田さんは1960年に「安田謙デザイン・スタジオ」をつくり、テクスタル・デザインに新風を送り込んで大きな成功をおさめ、時には多額納税者として新聞に報じられたことがある。しかし、これには安田さんの生いたちが関係する。

 

 安田謙さんは1911年4月21日に、京都の著名な染色図案家であった安田照久さんの三男として生まれた。照久さんは翠遷と号し、その門下には皆川月華さんや諏訪庚子郎さんなどがいた。また、長兄の安田百助さんをはじめ、叔父や従兄弟の多くもみな図案家であった。そのような生いたちから、謙さんも自然の成行で京都市立美術工芸学校の図案科に入学する。当時の美術工芸学校は吉田にあり、安田さんの在学中に、現在は京都市立芸術大学美術部となっている今熊野学舎へ写った。生徒たちは大八車をひいて、この移転を手伝った。後に安田さんはこの母校の教員となるが、それも同じ図案科の教員としてであった。

 

 安田さんは美術工芸学校で太田喜二郎さんに油絵を学んだ。このことが安田さんにとって重大な転機となり、画家となる決心を固めさせた。卒業した翌年、安田さんは同窓生や画友とともに、総合美術団体「各人社」をつくり、京都の大丸百貨店で第1回展を催した。…(略)… この「各人社」は1933年の第3回展で解散したが、その翌年に安田さんは「独立美術京都研究所」の創立に参加し、研究生として学ぶ。同僚には北脇昇さんや今井憲一さんがいた。研究所はいま高島屋の一部となっている、河原町四条にあった。1階は喫茶店で、2階にボクシングのジムと研究所があった。…(略)… この研究所で、安田さんは須田国太郎さんに師事したが、その真摯かつ理論的な指導に非常に啓発された。とくに光と影の関係や、物と空間などの、根源的な問題について教わることが多かった。また、安田さんがバロック絵画に興味を抱くようになったのも、須田さんの影響による。

 

 当時、わが国の画壇ははげしく揺れ動いていた。…(略)… 1930年には「独立美術協会」が作られた。独立美術の旗上げ以後、洋画界では、帝展、二科会、春陽会、国展、独立美術の5陣営が対抗したが、…(略)… 独立美術の黄金時代がしばらく続いた。

 このような画壇の空気も手伝って、安田さんも独立美術展に出品する。初入選は1935年で、それ以後は軍隊に召集されていた時を除き、毎回入選した。

 

 1935年に京都にセンセーショナルな出来事が起こる。それは朝日開館に大壁画が描かれたことである。今でこそビルディングの外壁に絵を描くことは珍しくはないが、当時としてはきわめて稀であった。…(略)… 

 また、この年に京都市は「市展」を創設した。現在の「京展」の前身である。安田さんは「聖堂」と題する絵画を出品し、受賞した。…(略)… 

 

 この1935年は、安田さんにとって稔りある年であった。5月から2ヶ月間、安田さんは今井憲一さんとともに、満州、蒙古、挑戦へ写生旅行に出かける。ハルピンでは未だ見ぬヨーロッパを想い、うらびれた亡命ロシア人に同情の念をよせた。また蒙古ではサソリに悩まされたりした。この旅行で描いた一連の小品を、安田さんは新しくオープンした朝日会館画廊での個展に並べた。この個展は好評で、翌年には大阪美術新論画廊でもおこなった。

 

 しかし、戦争の足音は次第に高まり、安田さんは軍隊に召集される。1回目は1939年から43年まで4年6ヶ月、2回目は45年に8ヶ月と、5年以上に及ぶ長い軍隊生活であった。中国の江西省と安徽省の境界附近に長くいて、湖口より廬山を眺めることが多く、陶淵明や白楽天や李白を偲んだという。そして、附近の風光を、家から慰問袋に入れて送られてきた紙にさかんにスケッチしたとのことである。…(略)… しかし、これらの絵画はほとんど残っていない。というのは、1960年代の大雨による地下倉庫の浸水で、すっかり破損してしまったからである。浸水に気づくのが遅かったことが致命的となった。

 

3.

 やがて戦争が終わり、安田さんは軍隊から復員して、画業を再開する。1947年には独立美術協会の会友となり、独立美術京都研究所を再建して、その指導員となる。また、独立美術展のほか、折から創設された「京都美術懇話会展」や「関西独立展」にも出品する。関西独立展では1950年と51年に関西独立賞を、独立美術展では1952年に独立賞、53年と54年には新聞社賞を受賞した。この頃の安田さんの絵画は、労働者や裸婦をモティーフにしたものが多く、様式はいわゆるネオ・キュービズムふうである。…(略)… この作風の代表作は、独立賞をえた「魚市場」(1952年)で、堅牢な構図から青春の詩情がにじみでる佳作である。…(略)… 

 

 ところで、これらの絵には、共通して見出されるひとつの特徴がある。それは手の強調である。…(略)… それは何故か。ひとえに人物の存在感を強めるためであった。…(略)… 

 このように手や足を大きく描くことは、その後も継承されていて、ドン・キホーテ連作においても屢々採用されている。…(略)… 「眼は口ほどに物を言う」とのたとえばあるが、安田さんのこれらの絵では、まさしく手が口ほどに物を言っている。

 

 もうひとつの特徴は、この時代の馬のほとんどが、正面または四分の三正面から見られていることである。馬を馬らしくあらわすのなら、側面観の方が描きやすい。事実、先史時代の岸壁画における馬はすべて側面観であらわされている。つまり、ある対象が難度も繰り返し見られることによって、対象の本質を最もよくあらわす特定の形態が、視覚印象の沈殿物として記憶の内にとどめられたからである。ところが安田さんは、描きにくい正面むきの馬を好んで描く。何故かおそらくそれは、馬の動勢に魅せられたからだろう。かくして正面から、しかも間近な下方の視点から眺められた馬の絵は、きわめて鋭角的で、激しい動きをはらんだ、勢いのあるものとなった。

 

 安田さんが1960年にデザイン・スタジオを起こし、その後10年感、テクスタル・デザインを手がけたことは…(略)… 安田さんの絵画に大きな影響を及ぼした。それは1962年から始まる、布を用いた作品の制作である。紙や布や木を画面に貼りつける、いわゆるコラージュは、すでにダダイストやシュルレアリストによって多面的に行われていた。しかし彼らは造形的な効果よりも、意識的な方法ではとらえることのできない偶然のフォルムを見出すために、この技法を採用した。ところが安田さんは、画面の新しい質感という造形上の効果をねらって、布を用いた。その意味では、安田さんの布はパピエ・コレ(貼り紙)の延長線上にある。

 

 しかし、安田さんの用いた布はたいへん凝ったもので、ピカソやブラックが用いたような粗末な「屑籠の中身」(ピカソ)の布ではない。古代裂や古代更紗にもいた上質の端切や、刺繍のほどこされた布裂を藤庭賢一さんを通じて手に入れた。そしてそれらをキャンバスに貼って、油絵具と併用した。「ドン・キホーテ」(1963年)や「墜ちるドン・キホーテ」(1964年)が、その例である。この種の絵画によって、安田さんは「こと」の描写よりも、「もの」の形成という、即物的な傾向を強めた。「こと」と「もの」のちがいは、視覚的と触覚的のちがいにおきかえることができる。つまり、視覚が仮象を通してフォルムに結びつくのに反し、触覚はマティエールを通して現実感覚と結びつく。事実、布を用いたこの種の安田さんの絵画は、布のもつ材質感や文様が微妙に作用して、きわめてデコラティブで、しかも触覚的な画面を形成している。加うるに、これらの作品の多くは大作であったため、ますます華やかな重厚さをたたえることになり、当時の画壇に大きな問題を提出した。

 

 美術ジャーナリズムによって、当時は「重マティール時代」と呼ばれていた。絵具が厚く盛りあげられたり、また絵具以外の種々の物質、たとえば紙、金属、繊維、木、セメント、合成樹脂、その他が画面に付着された結果、物理的にも絵の目方が重くなったからである。当時の画家の多くがパレットを用いず、また筆のかわりに大きな刷毛やコテを用いたりしたのも、この「重マティール」を裏づける現象であった。…(略)… このような状況のなかで、安田さんは他の重マティール派の画家とは異なり、豪華な布裂を用いることによって、デコラティブな絵画を形成して、注目を浴びたのである。(なお、この時代の布を用いた作品のほとんどは、先述の地下倉庫の浸水のために破損してしまった。)

 

 しかし、安田さんのこの種の絵画はその後長くは続かなかった。それには上質の布裂の入手が困難になったこともあるが、本質的に安田さんの資質に合わなかったからである。というのは、安田さんはもともと自然対象に触発された内的イメージの表現を主とする画家で、マティエールそれ自体が表現であるとする即物的傾向に属する作家ではないからである。つまり、安田さんは絵画を単なる静観の対象としてではなく、生の表現としてとらえたい気持ちから、このような布による技法を採用したのであるが、それを推し進めていくと、マティエールの無限の拡大によって、「もの」の明証性のみが追求され、そのことによって点、線、面、色彩といった純粋な造形要素の自由な構成による、内的イメージの定着が損なわれると感じたのである。かくて、安田さんは1970年代に大きく転向して、より具象的な作風に変わっていく。

 

4.

 安田さんの転向には、1972年のヨーロッパ旅行が大きく関係しているように想われる。…(略)…

 たとえば、「入城(影)」(1974年)という絵を見ながら、私はかつてバルセロナのカタロニア美術館を訪れたときの印象をありありと想起した。…(略)… この絵のもつ雰囲気は、まさしくカタロニアのロマネスク絵画のそれである。

 この絵において、安田さんはきわめて写実的な形態と幻想的な色彩によって対象をとらえ、そこから一種の超自然的なイメージをうかびあがらせている。現実を否定して意識の彼岸を探ったのではないから、これはシュルレアリスムではない。いわば「魔術的リアリズム」とでもいうべき手法で、人物、馬、壺、山などの実在感の追求と、それからの謎めいた出会いのうちに、独特のユーモアをあらわすのである。

 …(略)… 私は(注:「入城(影)」に)カタロニアの中世絵画の影響を強く感じる。もとより、安田さんは中世絵画の様式を踏襲したのではない。この絵の構成には細心の計算がなされており …(略)… その意味で、従前のネオ・キュービズムの感覚ないし修練が、この絵に生かされている。そのような古いものと新しいものの邂逅に、1970年代の安田さんの絵画の特徴がある。

 

 その後、安田さんの筆致は年を追うて細密になる。…(略)… 背景の自然や関連する人物を克明に描くことによって、その絵のもつ物語性を一層強めている。…(略)… そのような物語性の強調とともに、かつて正面から間近に見られた馬が、次第に側面観で遠くにあらわされるようになる。また時には「モンセラの誓い」(1975年)や「鎮魂譜」(1976年)のように、きわめて細密に描いた前景と、ぼかして描いた影絵の背景とを対照させて、不思議な幻想を画面に盛ったりもする。ここにもカタロニアの中世絵画の雰囲気と共通するものがある。そしてこのような幻想を更にかきたてるのが、紫を主とする鮮烈な色調である。

 

5.

 1974年と75年に安田さんはヨーロッパに赴く。スペインとイタリアにおける個展開催の打ち合わせと、その個展に出席するためである。1975年4月のバルセロナのベレニセ画廊の個展には、その4~5年の間に描かれた、100号の大作5点と、20~30号の中作を40点ほど並べた。それらの作品は、翌5月のミラノのヴィットルヴィオ画廊でも展示されるはずであったが、税関に留められたため、個展開催が危ぶまれる状況となった。そこで安田さんは、以前から手がけていた、いわゆるスクラッチ・デッサンを出陳しようと考えた。スクラッチ・デッサンとは、水性蝋を白い紙に刷毛で塗り、乾燥を待って、その上に牛の肝臓液を絵具にまぜて塗抹し、さらに鉄筆、竹、木、ナイフで引っ掻いて形象をデッサンする方法である。しかしイタリアでは水性蝋を入手することができず、自動車用のワックスで代用した。安田さんはホテルにこもって、約30点のスクラッチ・デッサンを制作し、個展に間に合わせたが、大へん好評で、美術雑誌のアルテ・ラーマにも紹介された。 …(略)…

 

 ところで、このスクラッチ・デッサンについて、私はクレーを想起する。1908年11月の日記に、クレーはつぎのように書いている。「正しい眼を養い、また腕をみがくために、私は自然主義的な絵画をたえず描いているが、その最大の欠点は、そこでは私の独創的な線を少しも発揮できないことである。自然主義的絵画には、線自体というものがない。それはただ色調や色面を相互にわかつ境界線の役目しか果たしていない」と。そこでクレーは新たな技法を発明した。すなわち、黒く塗ったガラスに針で描く方法である。黒い面のなかから浮き出る白い線、これをクレーは「夜の背景のうえの白いエネルギー」と呼んだが、このとき線はもはや単なる輪郭ではなく、空間を掘りおこす手段となった。霊妙な繊細さをもった、クレー独特の線がかくして成立する。そしてその線の微妙な動きは、彼の好んだヴァイオリンの旋律のごとくである。

 

 安田さんのスクラッチ・デッサンの線は、技法が類似しているだけに、クレーの線に通じるところがある。しかしクレーにくらべると、「エネルギー」的要素が少ない。おそらくそれは、輪郭としての線の性質がまだ多く残存しているからだろう。その意味で私は「騎士たち」「馬と少年」(ともに1976年)よりも、「調錬」(1976年)の奔放さを好む。それにしても、スクラッチ・デッサンは一気に線を引っ掻くことが生命であるだけに、非常に有効な技法であるとともに、またきわめて難しい技法であるとも言える。安田さんが、その難しい技法を駆使して、密度のある空間を形成しているのを、私は高く評価するものである。 …(略)… 

他者による言及(他の頁)
 安田静江
 関時之介
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 藤慶之
 三浦佳世