安田静江

安田謙,婦人像,1951年
「婦人像」1951年

 

安田静江は安田謙の妻。安田謙の最晩年の姿を歌集に残す。

結婚した年、1951年に描かれた「婦人像」には静江の面影が認められる。1952年の「魚市場」の乳児を抱く女性、1986年の「室内静物」(1986年)の母子像にも、その姿が反映されている


安田静江「遺作展によせて」のパンフレット、1999年から抜粋

 二度の応召から帰って来て立命館高校の美術の教師となり、労働組合長にまつり上げられて赤旗を振っていた頃からの付き合いなので、主人の若い時のことは、有名な図案家の家に育ったという事以外何も知りません。ただ姑が子供は絵描きにするなとよく言いました。落選した絵が雨の日に戻って来たりすると親も子も泣くばかりだからと。

 

 戦後つぎつぎ若い審査員に移行して独立美術ではなかなか認められず、他のあちこちの会から誘われましたが、酒びたりになって悩み乍らも独立美術を離れようとしませんでした。一時デザインを併行して職業としこれが油絵調として評判になったこともありましたが、やはり自分がドン・キホーテになり切ることによって、油絵の道を莫進して行ったようで25年間ドン・キホーテを描き続けました。しかしだんだん写実主義になるにつれて、見も知らぬドン・キホーテとその時代を描くことが困難となり、旅行をしてはその土地の風景を熱心に描いたりしていましたが、大病をしたこともあって身の回りの静物画を描くようになり、はじめは静物の下に敷く布の更紗を描けることに、デザインをやっていたという引き目を感じていましたが、何年か経って、僕もやっと吹っ切れて更紗が画けるようになったと言い、こうなれば自分の視力と交換に画くといって細密描写に打ち込むことになります。そして陶器の絵は亡父が刀を筆に持ち変えて、明治初期しばらく陶器の絵付けをしていた時があったとかで、しみじみとした思いで画いているとふっと洩らしたことがありました。そして後年自分のデッサン力を生かしてスクラッチ画なるものを発案し楽しんでも居りました。主人の晩年は自分史に忠実に生きて、絵筆を運んでいたのではないかと思います。

安田静江「ドン・キホーテの家」本阿弥書店,1991年 から

安田静江, ドン・キホーテの家, 1991年, 本阿弥書店
安田静江歌集「ドン・キホーテの家」本阿弥書店

「ドン・キホーテ」から

 ・赤灼くるラマンチャの土ほうほうと夢見る騎士を何処へ誘ふ
 ・夢なべて敗北なりき男ひとり現身死なむ日の安らなれ
 ・哄笑に耐ふるほかなきキホーテか夫の寝言に泣く声のする

 ・夫が画くドン・キホーテの顔老いて静かになりし二人だけの日々

 ・キホーテに我が重ね来し夫のかげ世を怖づるなき生といふべし

 ・試行錯誤の日々なまなかに身力の限りを生きてキホーテ老いぬ

 

「ドン・キホーテの家」の「逆光線」から

 ・逆光に置かれたるもの色なくて秋の窓大きく開かれしのみ

 ・転がれる林檎の影はくれなゐを出でむとしつつ形耐え居り


安田静江「さよならドン・キホーテ」本阿弥書店,1998年 から

安田静江「さよならドン・キホーテ」,1998年,本阿弥書店
安田静江歌集「さよならドン・キホーテ」本阿弥書店

「鎮魂譜」から

 ・ドン・キホーテに己が影重ね画かむは如何に悲しき心なるべし

「病む」から

 ・最晩年の作と言われむ袋小路の奥まで明るき陽の当たり居り

「大地震」から

 ・遂にかも快心の作と喜びし静謐の絵を人手に渡す

「退院」から

 ・何描く右手か必死に持ち上げて誰にも見えぬ絵を仕上げゆく

「そしてついに」から

 ・ダリは逝き並びて撮れる夫も友も亡くてスペインひた離りゆく
 ・雑音は我が耳底に花びらと積みて永久にキホーテは留守


安田静江 略歴

1921年(大正10年)滋賀県に生まれる

1934年 京都府立京都第二高等女学校入学。「潮音」の萱島功氏の薫陶を受ける

1941年 京都女子高等専門学校国文科入学。「日本歌人」の田中武彦氏の指導を受ける

1951年 安田謙と結婚

1983年 全国短歌大会(現代歌人協会主催、朝日新聞社後援)において馬場あき子賞 61歳

1985年 京都歌人協会短歌大会において京都歌人協会優秀賞。「群落」および「かりん」同人となる。

1987年 全日本短歌大会(日本歌人クラブ主催、文化庁・毎日新聞社など後援)において毎日新聞社賞

1988年 全国短歌大会(現代歌人協会主催、朝日新聞社後援)において大会賞

1991年 「ドン・キホーテの家」(本阿弥書店)刊行

1998年 「さよならドン・キホーテ」(本阿弥書店)刊行

2001年 死去(80歳)

他者による言及(他の頁)

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