関時之介

関氏は映画演出家。

 安田は若い頃から演劇に興味をもっていて、新劇や年末恒例の「顔見せ」(歌舞伎)にも足を運んでいた。自宅や個展会場に女優や映画監督が顔を出すこともあった。関氏とはそうした機会に出会ったのか、あるいは、行きつけの小料理屋で偶然に知り合ったのか、画家後年の友人のひとりであった。

安田謙氏のこと「安田謙画集」光琳社、1980年

「安田謙画集」におさめられた関氏の解説には、酩酊した酒席で明かされたのであろう画家の言葉が数多く引用され、安田謙の詳細な「プロフィール」ともなっている。一方、京都の工芸や芸術の伝統や、画家が生きた時代の世界情勢、内外の美術界の動向にも触れられていて、関氏の目を通した安田の制作背景をかいまみることができる。ここでは安田の来歴や人となりに直接関わる部分のみ、抜粋して再録する。

安田謙画集刊行会, 安田謙画集, 光琳社, 1980年
安田謙画集刊行会(編) 「安田謙画集」光琳社

「1.手」から抜粋

 画家安田謙氏の手は、しっかりとした骨組みで、物を掴み取るという手の原初の機能と形をよく表している。のみならず、いつも上機嫌でよく動くその手には、凡そ、この世の陽気を蒐め、掴んで、笑うような表情がある。…(略)…

 

 「ぼくは、何故?ということに就いては考えません。ただ興味あるものを描く。その時、何故それに興味をもったのか、色々理屈をつけたり、それらしい理由を考え出すことは出来るでしょう。しかし、本当の意味は解らないんじゃないでしょうか。

 

 ぼくは、ドン・キホーテを描いてきた。24年程描いてきた、勿論、それ丈を描いてきたわけじゃありませんけれど、人の眼には一貫してそれをやったと映った。人は、よく、何故?と尋かれる。そうすると、描きたかったから、と応える他ないですね。セルバンテスのドン・キホーテの全訳が岩波から出たのが昭和26年頃だったか、それを読んで、やってみたいと思った。20余年描いている間には、ぼく個人としても色々な時期があったし、外的な条件もあった。まあ、それでも続けてきたというのは、あんまり息せききってやらなかったからでしょう。」  …(略)…

 

 「ご存じのように、夜、お酒を飲んで、宿酔でぼーっとして何も手がつかないことがある。だけど、朝、定まった時間に仕事部屋に入ってみるんです。自分でキャンバスをビシッと張って、ホワイトで下塗りをする。あの緊張感はいいですね。何年も、そうやって来た。」

「3.由来」から抜粋

 ここに一つの「絵屋」という職業の名称がある。初め、桃山時代の文献に見え、それは、広い意味で絵を描くということだった。織物の下絵、色紙や冊子の下絵、或いは扇絵や屏風の押絵を描くことも含まれていた。 …(略)…

 

 「ぼくは醒ヶ井高辻下ルで生まれたんだそうですが、そこでの記憶はありません。蛸薬師堀川に移ってからのことは覚えています。親爺は大正の初めに堀川に住いを変えたんでしょう。絵屋さんだったんです。絵屋というのは、今で言う図案家ですね。たぶん、明治の中頃に、画描きと絵屋が分離したんじゃないでしょうか。」

 

 安田謙氏は、1911年4月21日に、翠遷・安田照久を父として生まれた。…(略)…翠遷は旧尾張藩士安田久左衛門百助の次男として明治7年に京都で生まれた。若い頃から画心があって粟田焼の絵付けをしていた、という。

 

 粟田焼の歴史は桃山時代に遡るが、…(略)…莫然とした陶器の絵付けではなく、意匠という意識と、絵を描くという心が受け継がれていた。

 

 翠遷が絵屋として住いを堀川に移したのは、そこが京染めの中心地だったからである。明治の初め頃迄、染色業はそこに集中し、堀川の豊かな澄明な水で水洗いした。翠遷は腰を据えて仕事にかかった。

 

 「ぼくの家の前は染色問屋で、横隣りは、しぼり問屋、紋屋さんがあるといった具合で、京都の友禅屋といわれる店が御池から南へ綾小路あたりまでの四、五丁の間に集まっていました。…(略)…ぼくの家には高島屋だの田村駒だのから人が来て、今度の着物はどんな図柄のものでいくか相談する。見ていると、セイチョウという和紙に親爺が木炭でスッスッと図案を描く。…(略)… 此処に光琳風の雲形を入れるとか、菊をあしらうとか、色々やって、それで決まると、そのプランを弟子に渡す。弟子がきちんとそれを整理して描いて、型屋へ渡すんですね。型屋は、図柄の色が十色あれば十枚の型紙に分けて彫る。その技術が見事でした。絵屋さんが描いた線の筆勢のようなもの迄ちゃんと復元する。そこには江戸時代からの木版画の技術が生きていたんですね。

 

 木版画というと、ぼくの家には、幸野楳嶺だの竹内栖鳳だのの絵や、光琳とか呉春とかの絵の木版がありましたが、実に精緻を極めたものでした。伊藤若冲の写真版があったけれど、こっちの方は写真印刷がまだ発達していなかった所為で、できのいいものぢゃなかったようです。そんなものが親爺の仕事部屋に置いてありました。図案の参考にしたんでしょう。小さいときのぼくが、それをこれは誰の絵という関心をもって見たって訳じゃありません。そこいら辺にそんな絵が置いてあって、自然、眼に入った。…(略)…

 

 まア、そんな風なことを見て育ったもんで、息子である長兄も、次兄も、ぼくも、図案家になるのが自然だという気持ちでした。」 …(略)…

 

  長兄の仕事部屋は活気があって、「ザ・カラー」とか「スタジオ」といった当時の美術の月刊誌が置かれていた。百助は、それらを丸善から取り寄せていたのである。画家は、それらの本から海外の新しい美術の息吹を受け取った。 …(略)…

 

 「ぼくは、油絵というものを通して、外的に何ものにも拘束されない精神の自由というか、画自体で自立し、成立する世界というものに初めて触れたわけです。絵屋という職業の家に育ったぼくにとって、それは、何とも言えない喜びでした。」

「4.蛤と蜆」から抜粋

 「わしが美術工芸学校の試験を受けた時なア、蜆と蛤のデッサンをやらされたんや。…(略)…中々うまいこといけへん。時間はたちよる、やればやる程おかしなりよる。そんで、ひょいと後見たら、ものすごううまい奴がいよった。それが謙さんや。」

  画家とは五十年の友である無形文化財、面庄・岡本庄三氏が語ったことがある。 …(略)…

 

 大正13年4月、安田謙氏は美術工芸学校の図案科に、岡本庄三氏は彫刻家に入学した。…(略)… 安田謙氏は校友会展(校内での展覧会)で三年生の時に金賞、四年生で銀賞を得た。岡本庄三氏は特待生となった。

 

 「ぼくは岡本を知ってから、よく彼の家を訪ねました。中京の綾小路柳馬場にあるその家は、幕末のどんどん焼けの後に建ったもので、入り口を入ると奥へ続くうす暗い土間に面して仕事部屋があって、其処で彼の親爺さんが人形を作っていた。ぼくが、今日は、と挨拶しても、仕事の手を休めず、一寸黙礼を返される丈でいた。ああ、これが、ほんとの職人というものなんだな、と思ったものです。」…(略)… 由緒ある「面庄」十三世に生まれた岡本庄三氏は、当時その家業に反逆して、彫刻家になりたいと思っていた、という。

 

 昭和3年の秋、「1930年協会」の講演会が寺町丸太町を上った会館であった。里見勝蔵、前田寬治、小島善太郎、佐伯裕三、木下孝則といったパリから帰ったばかりの人たちによって結成された「1930年会」は当時日本の洋画壇の最先端に起つという気魄がうかがわれた。…(略)…一七歳の安田謙氏と、岡本庄三氏は、二人して講演を聴きにいった。会場には、フォーブとかキュービズムとか、ヴラマンクとか、ユトリロ、ルオーといった言葉が目映いほどに飛び交った。二人は異常な心の亢を覚えた、という。 …(略)… 

 

 小出楢重は四三歳で死ぬ一年前に次のように述べた(「油絵新技法、昭和5年)。「日本は洋画の発祥の地ではなかったので、…(略)…ついその花だけを眺め、何の支度もなく花だけを模造しようとする傾向があ…る。然し乍ら、根を本土におろすべき芸術は、その根も共に知ることなき限り、本当の発生と進歩は困難である。」…(略)…

 

 そのような時代に、安田謙氏は絵を描こうとし始めたのである。

 

 卒業制作の自由課題で、画家は屏風に「地獄絵」を描いた。閲覧し研究した「北野天神縁起」や鎌倉期の絵巻物に材を得たものであった。昭和4年、画家が一八才のときである。この作品は学校が買い上げるところとなった。「地獄絵」は、画家の若い魂に映った時代の表現であったか、或いは、その後の長い戦争の予感だったかも知れない。この年、父翠遷が亡くなった。

「5.邂逅」から抜粋

 「20才をどのような時代に迎えたかは、その人の生涯に決定的な影響がある。」と、アンドレ・ジッドは言ったが、安田謙氏にとっての20才は昭和6年である。

 

 その前の年5年に、画家や岡本庄三氏や同窓と集って、「各人社」をつくり、昭和7年迄の三年間に大丸で三回、京都ホテルで一回の展覧会を開いた。… 無名の新人たちがデパートを会場にすることは困難であったが、…(略)…又、ホテルで展覧会をするのも当時の常識にはなかったが、これも意表をついてやった。 …(略)…

 

 「各人社」の京都ホテルでの展覧会で、須田国太郎の批評を乞うことになったのは偶然であった。ホテルの支配人が「ホテルは元来人を泊めたり、食事をするのに使用する処であって、展覧会場ではない」と言うので、それでは食事をしようということになり、それには同人だけではなく、批評家に来て貰おう、となったのであった。

 

 安田謙氏は、この時初めて、須田国太郎に邂逅った。

 

 須田国太郎は京都帝大で「希臘彫刻史」を講じていた。この人は三校から京大の美学へ進み、卒論では希臘の模倣論を取扱った。学生の頃から油絵を描き、大正7年から12年迄西班牙に留学したが、帰朝して直ぐ様作品を発表するようなことはしなかった。小出楢重が言った「花だけを眺め、何の支度もなく花だけを模造しようとする傾向」など、少しもなかった。 …(略)… 「根を本土に下すべき芸術」を志そうとする自覚を早くも中学の五年生の頃からもっていた。…(略)…

 

「模倣でない仕事を、それが新しいものであることを念願し出した。…(略)… 新しいものの要求は、その(注:東洋と西洋の)総合の上に立つのではないか。…」(「アトリエ」1959年、4月号)と考えるようになっていた。

 

 安田謙氏は、このような人を師とすることとなる。

「5.邂逅」から抜粋2

 昭和10年3月、安田謙氏は第5回独立展で入選した。…(略)… 同年、独立美術協会は新築会館の京都の朝日会館の外壁に壁画を依頼された。

 「ぼくも、京都から加わった二人の中の一人としてその仕事に参加しました。…(略)… その時、朝日会館の北隣のカソリック教会に道具や材料を置かして貰ってたんですが、その教会に通ううちに80号Pにその内部を描きました。…(略)…「聖堂」と題し、第1回市展に出しました。

 

その頃、画箋堂で偶(たまたま)関根正直博士の「熱河」という本を見ましてね、行ってみたいと思ったんです。今井先生(憲一)も池田君(治夫)も行こうということになって、五月のかかりに出発して先ずハルピンへ向かった。…(略)… それ迄西欧の文化にじかに触れる機会がありませんでしたから、白系ロシア人の作ったその町はエキゾティックで、毎日、あっちこっちスケッチして歩きました。…(略)… 一ヶ月程そうしていたら、電報が来て、市展に出した例の教会の画が入選して「紫賞」というのになった、賞金が百円、と報されて、直ぐに「百円送れ」と返電して、その金で今井先生と二人で熱河に行くべしとなった。…(略)… 

 

 熱河の日本軍のいる最前線まで行って…(略)… 画を描きにきたと言うと、兵隊が生命は保証できんという。

  それでも方々へ行きました。4号くらいの板が五枚入る箱と零号くらいのとを提げて。毎日、板に二枚か三枚位描いたかな、寺とか仏像とか。 …(略)… 

 

 日本軍が熱河を掌握してから二年余り立っていたが、中国の排日運動は高揚していたから、何時何が起こるか解らない旅であった。

 

  その秋、新設された京都の朝日会館画廊で、安田謙氏は最初の個展を開いた。

  ハルピンに投影された西洋へのあこがれと、熱河の塔の高さへこめられた東洋の心とが、その個展の主題であった。…(略)…

  昭和11年1月、大阪朝日会館の美術新論社画廊で安田謙氏は二度目の個展をもった。そして、その一ヶ月後に、二・二六事件が起こった。 …(略)…

 

 画家は卒業制作に「地獄絵」を描いたのであったが、その年から八年後の昭和12年に日華事変が起こり、太平洋戦争へと戦争は拡大され、昭和20年の敗戦に至る年月は画家にとっては二度と還ることのない彼自身の十八才から三十四才までの時間に他なからなかった。そうして、昭和14年から敗戦迄の間(一年十ヶ月を除いて)応召されて戦陣にあった。 …(略)…

 

 敗戦。画家は京都へ還って来た。が、幼い時からながく住みなし、なじんだ堀川の家は跡かたもなかった。強制疎開で画家の家は破壊されていたのである。空襲による類焼を部分的にくいとめるために、或る一区劃の住居を強制的に壊して空地にしたのが戦時中の強制疎開であった。…(略)…

 

 この画集に収載された作品は、これ以後の戦後に描かれたものである。それ以前の作品が見られないのは他に理由もあろうが、大半は戦争に帰されるべきものであろう。…(略)… それ故、ここに見ることの出来ない作品が、どのような時代に、画家のどのような心持で描かれたか、つまりは、ここに目にすることの出来る作品が生み出されるに至る由来-画家の内面的な世界がどのように形成されていったのか、その一端をでも迹ねたいと希ったのである。 

「6.物と心」から抜粋

 戦争は多くの時間を画家から奪ったが、生還してから始めた仕事を見ると、戦争で中断されたものを取戻すというより、もっと激しい切実な心持ちである。…(略)…

 

 昭和20年大の半ば頃から、画家の眼は、「働く人」、-生きる人間が様々に動く姿に注がれている。戦場で死を見、死を越えて、混沌たる時代の中に一人の生活者として入った人の眼には、当時の生きて、行動する人間は、働くことこそがその儘生きることだったから、その姿はきらきらしく映ったことだろう。…(略)… 

 

 昭和27年、第20回独立展に「魚市場」を出展して、画家は独立賞を得た。…(略)…画家は、その時、四十一才で、それは師須田国太郎が最初の個展をもった年令に等しかった。

 

 それから後の時期、画家は、次第に動きそのものへ関心を対ける。「人と馬」(書和31年)、「調馬」(昭和33年)などの作品は、四十才半ばに達した画家が、それ迄、同時代の対象、-「働く人の姿」への直接的な感情移入から距離を置き始め、生命そのものをその核心で捉えようとする挑戦である。…(略)… 

 

 画を描く一方で、薦められて、昭和26年から日吉ヶ丘高校の美術課程図案科を指導していた。絵屋に成長した画家にとって、図案はなじみある世界であった。その延長で昭和30年頃、「安田謙デザイン・スタジオ」を開いている。この「デザイン・スタジオ」は画家に思わぬ収入を与えたらしい。繊維の商社から注文が殺到したのである。ここから、今日、テキスタル・デザイナーとして第一線で活躍している鳥居雄三、酒井隆嗣等の人材が育った。 …(略)…

 

歯車はそれが廻りだすと、他との現実的な関係からも、人材を育てる意味合いからも、容易に止めるわけにはいかなかったであろう。画家は図案による繁忙と、本格の画業との間で苦しんだに違いなかった。昭和32年には、相次いで、長兄百助と母ハツを失った。

 

 昭和35年、第28回独立展に、画家は大作「ドン・キホーテの肖像」を発表する。操り人形に似た、きりきりとした骸骨のように痩せたドン・キホーテが、左手の剣を大地に突き立て精一杯の踏ん張りで身を支え、異常に大きな右手が馬の顎あがりを撫でている。激しいタッチで描かれたこの作品は、その儘、画家の内面の葛藤と何ものかへの「挑戦」を伝えている。…(略)… 翌昭和36年12月、師須田国太郎が死去した。 …(略)…

 

 二年後、画家は日吉ヶ丘高校の教職を辞した。その年、昭和38年4月から8月にかけて、画家は最初のヨーロッパ巡歴の旅にでかけている。北欧、フランス、ドイツ、イタリー、エジプト、そしてギリシャを廻った。

 

 昭和42年、第35回独立展に、「ドン・キホーテ2」が出品された。この馬上のドン・キホーテは、行き暮れて苦渋にみちている。が、画家は、明らかに、そのドン・キホーテの上に自分を投影し始めている。…(略)… 顎をあげた顔には、途方に暮れた眼が天を仰いでいる。然し、パレットのように見える楯でその左手はかくされているが、天を指す槍を握る右手は大きく力強い。その姿は、パレットを左手に、右手に筆を持つアトリエの画家の苛立ちと苦闘を髣髴とさせる。恐らく、画家は、現実的な生活の多忙に身も心も引き裂かれるような状態にあったのであろうか。…(略)…

 

 「ドン・キホーテ2」を発表した昭和42年、画家は招かれて京都市立芸術大学で洋画を教えることになる。

  「今井先生(憲一)が芸大にいて、けったいな奴やけど呼ぼうかということになったんじゃないかと想います。図案をやっている時期、よく滅茶苦茶に酒を飲みました。酒場で遇うと、今井先生は、ずばっと『安田謙の華麗なる画のない時代』と言われました。昔と少しも変わらない態度なんですね。売るような画を描くな、自分に忠実に生きろ、あの人は一貫してその姿勢を崩さなかったし、今もそうです。あの頃、ぼくは、じっとしている暇がなくて、飛行機で飛んだり、往ったり来たり、しんどくてね、お酒を飲みました。お酒で自分を整えるということをしてたんですね。」  …(略)…

 

 酒場で、偶(たまたま)、親友岡本庄三と遇った。氏は面庄十三世を継ぎ、「あまがつ会」を主宰し、五条大橋の畔に「牛若、弁慶」を建て、新制作会員としても、年々、作品を発表していた。岡本庄三氏のモットーは、次のブールデルの言葉である。「忍耐、忍耐、忍耐、そして、又、忍耐。」人は一度、二度は忍耐する。が、その上、尚、使命感をもって、持続する意思で忍耐する者は少ない。「謙さん、じわじわやるより仕様ないがな」と言う、この親友の存在は、画家にとって言葉に尽くせぬ励みであった。…(略)… 京都の「職人」の家に生まれたという精神の牢固とした親近のつながりがあった。…(略)…

 

  昭和45年、第38回独立展に、画家は「再度ラ・マンチャを出発する」を出展した。この作品は「ドン・キホーテの肖像」から十年を経過した位置にある。…(略)… その顔は、外側に表れた顔の奥に、もう一つの顔、-或る精神を感じさせる。それが旅立ちの顔だとしたら、旅に新奇なものを求めるのではなく、自分の内部に、初めからほのかに感じられていたものが、一時、見失われたようでいて、しかも尚、再三姿を現してくるものを捉えようとして出発するといった風である。…(略)… 

 

 その年、画家は「安田謙デザイン・スタジオ」を自らの手で閉じる。

「7.澄む」から抜粋

 昭和47年の4月から8月の間、画家は中村善種氏と中近東、ギリシャ、イタリー、スペイン、モロッコ、フランス、北欧を巡歴した。

 

 帰国後、それ迄続けられて来たドン・キホーテの連作の作風に、著しい変化が現れた。眼に見える象(かたち)として、画はリアリスムの色合いを濃くした。…(略)…更に,昭和51年の「鎮魂譜 I・II」になると、画はバロックへ移行していくように想われた。同時に、そこに表現されたドン・キホーテが画家の風貌に近接した。それで、二十年に亘って続けられたドン・キホーテの連作が、画家の自画像だったことに気づくのである。ーキャンバスの上で、ドン・キホーテの姿をかりた自身の姿を「他人の眼」で眺め、その時の画家自身の内部の問題と格闘したという意味で。…(略)… 

 

 昭和52年3月、画家は京都市立芸術大学教授を退官した。そこでの十二年に訣別する心持を「鎮魂譜」としたのであろうか。

 

 その年の夏、画家と竹内峠を太子町の方から飛鳥にむけて歩いたことがある。…(略)… 集落を北へはずれた池の畔にくると、二上山と葛城山が夏雲を従え近々と仰ぎ見られた。葛城山は、師の須田国太郎が描いている。画家も、その山を已に描いていた。画家が言った。

 

 「ぼくは、これ迄、とも角歩いてきました。ところが、ぼくの道は前を見ても、後ろを見ても誰もいないんです。一人ぼっちなんですね。」

 

 その年の秋、二つの大作「グロリア・エスパニア」を独立展に発表して、画家は、自ら、過去の二十年と訣別した。スペインの風土と宗教をテーマとしたこの作品は、異様な熱気と明るさをもっている。一つは、心の動きを素早いタッチで描いた闘牛とキリスト教とを配した「動」,一つは、精緻な計算でゆっくり仕上げられた古い教会の内陣とキリストとスペインの女を配した「静」の画である。…(略)… 特に、「静」の画は華麗な色彩にもかかわらず、静謐をたたえて、画家が次に拓いていく世界を暗示するかのようであった。…(略)…

 

  昭和54年の初めから、画家は静物を描き始めた。東洋と西洋の陶磁器を主としたものである。あたかも画家は、一つのキャンバスの上で西洋と東洋という二つの文化を包摂するように、その各々を見据え、夫々の実在を深いところで捉え、融合しようと努めているかのようである。

 

 画家は昭和48年、49年と外遊し、昭和50年には4月にスペインのバルセロナのベレニセ画廊で、5月にはイタリーのミラノのビットルビオ画廊で夫々個展を開いている。こうした数度のヨーロッパ、スペインの旅が、離れたところから日本を、東洋を眺める機会を画家に与え、京都に生まれ育ち、今も住む画家に、おそろしい京都を土台に日本を描かせようとしているのであろうか。そして陶磁器を眺め、画筆をキャンバスに運ぶとき、画家の心裡に、陶器の絵付けをした若き日の父親への遠い思いがよぎっているのであろうか。

 

 「豊かさというものは、捨てるものをもたなきゃだめなんですね。捨てて、捨てて、それでも残るものが、豊かさというものになるんでしょうね。…(略)…まだ、ぼくは雑念が多い。…(略)…これからだと思っています。」

他者による言及(他の頁)

 安田静江

 梅原猛

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 藤慶之

 三浦佳世